七仏薬師瑠璃光如来
郷のはずれにある泉で龍願は水を汲んでいた。私はその真後ろに立ち止まる。
「ほう、背中が空いておるのに糸を放ちもせんのか。長く、こちらに居ついたせいか、丸うなったのう」
「龍願、聞きたいことがあるの」
「はよう言え。ワシは年老いた者の家に水を汲まねばならぬので忙しいのじゃ」
「あなたは本当の薬師仏で……まあ、こっちのほうは今更どうでもいいのよね。大事なのはこの先」
私は胸に手を当てて、尋ねる。
「この病気、もう治っているんでしょう? 気づけば、もう二か月は痛みを感じていないわ」
龍願は振り返ると、にんまりと笑っていた。
「やっと、わかったか。そうじゃ、姫よ、お前さんは成長なされた。じゃから、七仏薬師法は自然と成就したというわけじゃ」
「ありがとう。といっても、何が変わったのかよくわかっていないけどね」
変わったとしたら、この土地に少しばかりなじんできたということだろうか。
「激変もいいところじゃぞ。ここに来たばかりのお前さんは、自分の病を治すことしか考えておらなんだ。我執(がしゅう)からちっとも抜け切っておらんかった」
「だって、病気を治しに来たんだから、当たり前でしょ」
「しかし、我執に囚(とら)われていてはいけないと仏の教えにあるのはおぬしもよく知っておろうよ。お前さんはいつこだわりを捨てたかわからないほど、さらりとこだわりを捨てたのじゃ。少なくともお前さんの痛みはこだわりが生み出したものじゃったというわけよ」
仏の教えとして解釈するなら、龍願はこんなことが言いたいのだろう。
お前は自分のことしか考えていなかった。だが、この萩原の郷に来て、ほかの人の苦しみや生き方に素直に寄り添って、ほかの人のために生きるようになった。だから、痛みという迷いが晴れたのだと。
「今のおぬしは姫じゃから偉いのではない。人としてなすべきことをなしているから偉いのじゃ。その驕りとは違う誇りが顔に表れておる」
私は五色の絹糸をてのひらに載せた。何かを縛る張り詰めたものではなく、ゆるんだままの状態で。以前の私はずっと張り詰めて、窮屈になっていたかもしれない。それと、この奇跡の糸を操れることで増長していたかもしれない。
でも、そんな解釈では結論が出ないものが一つある。
「私が成長したのはいいとして、まだ納得のいっていないところがあるんだけど」
「いったい、なんじゃ。そろそろ水を運ぶからとっとと言え」
「七仏薬師法っていったい何だったの? 仮にあなたが薬師仏だったとしても全然人数が足りていないじゃない」
たしかにお告げで私は七体の薬師仏と出会うと言われているのだ。
「ふむ、お前さんは何人でここに来た?」
「私と、乳母の杉自と、行基さんと、警護の権太夫と、それから大牛ね。大牛も入れて、都合五人ということにしておきましょうか」
「いたわりの心を持っていたのはお前さんだけではない。ほかのみんなもそうじゃ。それで薬師仏の心を備えているのは五人はおるではないか」
私はやはり、この龍願という女は詭弁を弄する奴だなとちょっと思った。
「いやいやいや、あなたが薬師仏の一人だとしても、六人なのよ。最後の一人は――」
目の前がまぶしく光った。
私の前に薬壺を持ったお薬師様がお一人、顕現していた。
その全身は光り輝いていて、とても目など開けていられないはずなのに、なぜかまったくつらくはなかった。やさしい光だった。
いや、お一人ではない。
その両側に三体ずつの同じようなお薬師様が立っている。
ああ、お薬師様は私のそばにいて、私の苦しみを癒そうとなさっていたのだ。
きっと、私がこの世に生を受けた時からずっと!
病が癒えようと人はいつか死んでいく。もし、病を癒やす力しかないなら、それではお薬師様は医者と変わらぬことになってしまう。
お薬師様の大願は私たちの往生を願うことにほかならない。
いつのまにか、仏様たちの姿は消えていた。いなくなったのではなく、ずっといらっしゃったものが今、偶然に見えたというだけのことかもしれない。
「これぞ、まことの七仏薬師法じゃ」
龍願が遠い目をしていった。その目は印旛沼の彼方を見つめているように思われた。
「もし、平癒のために都でやっているような大仰な修法が必須なのであれば、それでは貴族しか助からぬことになってしまう。そんなケチなことを薬師仏がおっしゃるものか」
「そうね。私も少しは成長できたようね」
私は手の内の五色の糸を握り締める。
でも、もう一つ、確かめておきたいことができてしまった。
「ところで、龍願、あなたは何者なの? 薬師仏ではなくて偽者ということでいいのかしら?」
この女がお薬師様の現し身ということなら薬師仏と言い張っていたのもわかる。しかし、龍願は今もずっとここに立っている。
「薬師仏ではないが、薬師仏に仕え、その教えを弘めておる存在じゃ」
「だから、それを騙(かた)るって言うんでしょうが」
「印旛沼の嵐を鎮めた恩を忘れおって」
最初、何を言われたのかよくわからず、私はぽかんとした。
「嵐を鎮めたのは行基さんの力によるものでしょ。浮き島も含めて。どうして、あなたの功績が出てくるのよ」
「願われたところで、その願いを聞き入れる者がおらんと話はつかんじゃろ」
そう言って笑うと、龍願はその場で大きな、大きな龍に姿を変えた。
「ちょっと、ちょっと! あなた、こんなとんでもない存在だったんだ!」
「ワシはこの地に住まう龍神じゃ。もっとも、薬師如来の教えを受ける者ということであれば、姫たちと同格かもしれぬがな」
ああ、行基さんは沼の龍神に祈りを捧げると言っていたっけ。その龍神こそ、龍願だったのだ。
龍神ははるか遠くへ飛んでいった――と思ったら、また龍願の姿でそこに立っていた。
「水を持っていくのを忘れておったわ。だいたいここで消えてしもうたら、ここの連中も困るからのう」
そして、ばつが悪いのか、赤い顔で水のなみなみと入った木桶を運んでいった。
次回で最終回です。12月8日にアップ予定です。