ちょっと酷いと思う
痛みが現れたのは一年以上も前のことだった。
胸が苦しいと最初は思った。だが、それはすぐに全身に延びていく。のたうちまわりたくなることも何度もあった。一日中痛いわけではないのが、まだ救いだっただろうか。
数えられないほどの高僧が参内し、修法を行った。あるいは名高い社でも、いくつも祈祷が行われた。春日、大和、龍田、広瀬、三輪、石上、数え上げればきりがない。おそらく、私の知らない社でも似たことが行われていただろう。皇女の病気というのはそれだけ大きな問題であるということを改めて知った。
しかし、痛みは引かず、私はもはやこれまでかと覚悟した。私が操れる五色の糸はもしかすると往生が近いという意味だったのかもしれない。
ついにお父様の帝はあの行基さんに病気平癒を託した。全国を遍歴し、各地で人を救ってきたこの時代の偉人の中の偉人だ。もしかすると、彼ならと私も思った。
行基さんの必死の読経の途中、ついに奇跡が起きた。私もはっきりとそれを目撃した。
お薬師様が現れ、こうおっしゃったのだ。
――姫よ。そなたの苦しみを癒すのは都ではない。下総国、萩原の郷へ行きなさい。そこでそなたは七体の薬師と出会うであろう。
私はすぐに行基さんに言った。
「下総に行くわ。唐や天竺よりは近いでしょう?」
その後、坂東のほうから戻ってきた役人に聞いたところ、下総の印旛沼(いんばぬま)のほとりに、高名な薬師仏がいらっしゃるという話は耳にしたことがあるという。そこに萩原という地名もあるというから、枕下での薬師仏のお言葉にも見事に一致する。
皇女が下総にまで旅立つなどというのは前代未聞のことだったけれど、私の命がかかっているのだ。背に腹は替えられないと下向の許可はあっさりと出た。
私と旅に出たのは、一緒にお薬師様を見た行基さん。
それから乳母の杉目の刀自。刀自というのは敬称みたいなもので、私は略して杉自と呼んでいる。
護衛として兵衛府で宮中警護をしていた花井の権太夫。
最後に大荷物を背中に載せてくれる大牛。
そんな仲間と、私は下総の地を目指した。
途中、本当にいろいろなことがあった。尾張へと向かう途中の海は荒れるし、山賊には囲まれるし(これは大牛が突き倒した)、大蛇にも襲われた(これは権太夫が大蛇の腹をかっさばいた)。
挙句、あとは印旛沼を舟で渡るだけというところまで来たら、ずっと嵐が続いた。しかも、そんな時に限って、私の痛みが強くなる。
ここで終わりを迎えたら、あまりにも報われない一生だと思った。けれど、むしろ私以外が諦めなかった。
行基さんはこの沼に住まう龍神に祈りを捧げればどうにかなると、ひたすらに読経を繰り返した。その成果があったのか、ついに嵐もやんだ。お薬師様も現れたし彼の法力は本物だ。
嵐が去っただけなら、運がよかっただけと思ったかもしれないが、もう一つ奇跡があった。
嵐で肝心の舟が流れて、やっぱり足止めか大周りだなと思った矢先、なんと沼の向こう側から浮き島がぷかぷかとやってきたのだ。
きっと、これも奇瑞にほかなりませんと行基さんは言って、恐れもせずに真っ先に浮き島に乗った。たしかにその島はどっしりとしていて、転覆する様子もない。残りの私たちも覚悟を決めた。
この浮き島に載ると、私たちは竿で対岸まで漕ぎ出していった。島が舟代わりになるだなんて、前代未聞のことだろう。
それで、ようやく私たちはやっと萩原の地にたどりついたというわけだ。
到着した私たちは病気が治る前だというのに、すべてが解決したみたいに喜びあった。武骨な大男である権太夫すら声を出さずに泣いていたし、乳母の杉自に至っては浮き島に乗っている間から泣いていた。大牛だってにっこりと笑ったように顔になっていた。
私たちは奇跡に導かれている。
でなければ、ここまで来ることだってきっとかなわなかった!
――なのに、肝心かなめのお薬師様があんな詐欺師の女だとは。
仏様がいらっしゃるなら、これはあまりにひどい仕打ちではないかしら……。
目を開けると、杉自の顔が見えた。また看病をしてくれていたらしい。ほとんど寝ずの番だったのか、目にくまができている。
「おかげんはいかがですか、姫様」
安堵の表情で杉自が言う。
「今は痛くない。長く寝ていたの? この旅のことをずっと思い出していたわ」
板の隙間から光がのぞいている。おそらく一日近く眠ってしまったのだろう。
よくもまあ、こんな無謀な旅ができたものだと自分でも驚く。それほどに私はこの奇妙な病を治したくてたまらなかった。
「ここはどこ?」
「郷の長の屋敷でございます。しばらく逗留することは了承させておりますので、ご安心ください」
「逗留か。そうね、とんぼ帰りはありえないわね」
すぐに引き返すには私もほかのみんなも疲れ果てていたし、この土地に正真正銘のお薬師様がいらっしゃらないとも限らなかった。
しばらくすると行基さんと権太夫も仕切られている部屋に入ってきた。私は病に苦しむことはあっても、意識を失ったことまではなかったし、よほど心配だったのだろう。
「姫様、俺たちは何をしたらよいでしょうか?」
権太夫がダミ声で尋ねた。
「そうね。じゃあ、このあたりの調査をしてもらおうかしら。まず、第一はこの土地に薬師如来が祀られていないか。ここの民が、路傍の石を薬師如来として信奉してないとも限らないから。もう一つは――」
私は言おうとして、少し顔を歪めた。
「あのお薬師様を騙る女を調べて。何か真相を知っているかもしれない」
「そのことでございますが、郷の者たちと話をして、ある程度わかったことがございます」
行基さんが少し猫背になって、顔をこちらのほうに寄せた。
「わかった。聞かせて」
「はい、あの娘は龍願と名乗る者で、苦しんでいる者を見かけると、天に祈りを捧げているのだそうです。字は龍に願うと書きます」
「龍願か。いかにも官寺を出ていない修行者が勝手につけたような名前ね」
やっていることも典型的な民を惑わす方法だ。そうやって、布施を巻き上げて暮らしているのだろう。
「重病人のところに出向いて、さあ商売だとばかりに祈ってあげるというわけね。天下の極悪人だわ」
行基さんの目を見ると、まだ付け加えることがあるというのがわかった。
「それだけでなく、何日も雨が降らぬ時や、逆に秋の野分(のわき)で稲がやられてしまいそうになりそうな時にも、一心不乱に祈っているのだそうです。すると、必ず天候がよくなるとか。霊験はあらたかということでこのあたりの土地では人気を集めているようで」
ふと、その話が私の耳にひっかかって、残った。
「七仏薬師法にも天変地異を鎮めるだなんて効果があると言われていたわよね」
平城京が都となっているこの時代、薬師信仰は七仏薬師法という大掛かりな法によって表現されることが多くなっていた。
七仏というように、お薬師様は実は七体いらっしゃって私たちを守ってくださっているのだというものだ。この修法は大変強い効き目があるとされるが、七体の仏像を必要とするため、実質、都のまわりや富裕な大寺院ぐらいでしか行うことができない。
言うまでもなく、こんな田舎の、それも国衙の近くでもないところでは無理だ。
仏像の一体であれば、もしかすると、ひそかに安置されていることなどもあるかと思ったが、七体というのはとても不可能な注文だろう。来てみて、それを実感した。この国で豊かなのは都のほんの周辺だけで、その外側では人はひどい暮らしをしていた。
しかし、私はお薬師様の声を聞いたのだ。
「あの薬師仏がいらっしゃった出来事が勘違いだとは思えないわ。ここには何かがある。しかも、七仏薬師法を暗示なさっていた。七体のお薬師様とおっしゃっていた」
「わかりました」と行基さんがうなずく。それに権太夫も続いた。
「私は、そうね、体がよくなったら龍願と一勝負やってみようかしら。あいつにも法力があるなら、その力で病を退散させてもいいんだし」
杉自が「姫様」と諫める口調で言った。
「間違ったことは言ってないわ。あくまでも、私がここに来た目的は、私の苦しみを癒すためなんだから」