松虫姫の物語(寺伝)

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 今から約千二百年あまり昔のこと、奈良の都は聖武天皇のご治世、天皇三番目の姫としてお生まれになったのが松虫姫(不破内親王)です。大変、美しいお姫さまとの評判でしたが十四歳の時、重い病気に罹られました。
 都の名医たちが八方手を尽くしても効果なく困り果てておりました。

 

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ある夜、姫の夢枕に白髪の老人が現れ「私は下総の国萩原村(現在の印西市萩原)の出戸の薬師如来の使者です。お姫さまが萩原の里まで下られてご参籠なされば、その病は必ず治るでありましょう」とお告げがありました。

 

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姫がこの事を父君陛下に申し上げますと、天皇はそれを当時の名僧行基僧正にご下問になり、僧正の進言により姫は下総の国へと下られる事になりました。

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  姫を牛の背に乗せ、お供として行基僧正、姫をお育てした乳母の杉自(すぎじ)、警護として武士の権の太夫、ほかに召使が三人という少人数で道なき道を分けながらの長い旅が始まったのです。

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 途中、遠州の山の中で山賊に襲われた折、姫は牛から降りて身を守り、権の太夫一人で山賊と渡り合っていたら牛が猛然と暴れだして山賊の頭領を角で突き殺してしまったとか、箱根の山中では大蛇に道を阻まれたが、これも権の太夫が無事に退治したとか色々のことがあったようです。

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 やがて一行は印旛沼の岸に着きました。これを渡ればすぐに萩原の里ですが、舟がなくて渡ることができません。そこで行基僧正が沼の岸辺に座って一心に観音様に祈りを捧げますと、やがて沼の中へ土が浮かび上がって、一行はここを通って無事対岸へ渡ることができました。以後、この土地を土浮村と呼ぶようになりました。(現在の佐倉市土浮)

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 いよいよ萩原村出戸の里です。道の傍らに清水の湧くきれいな池があったので、一行はここで旅のほこりを洗い清め、すがすがしい身体となって薬師堂を訪ねました。

 

 それはみすぼらしいお堂でしたが姫は食を絶ち、身を清め薬師如来に祈りました。

 

行基僧正は木を伐ってきて、仏像の彫刻を始めました。本尊の薬師如来の脇へ、もう六体の像を造って七仏薬師にするためです。(この像が現在の本尊 重要文化財の七仏薬師とのこと)

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 乳母の杉自は、ひなびた村に都の文化を伝えようと村人を集め文字の読み書きや養蚕のやり方を伝えました。(関東の養蚕の祖といわれています)

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 こうして二十一日目の満願の日、心身ともに疲れ果て薬師の前で深い眠りにおちた姫は夢の中で病気平癒のお告げを聞きます。驚きと喜び、姫の病気はきれいに治っていました。一同の喜びはたとえようもありません。

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都に帰ることになりました。ただ、姫の乗ってきた牛は体が弱ってしまい、とても都までは帰れそうもありませんので別の牛を使おうと相談していたら、利口な牛はそれを知ってたいそう悲しみ出発の前の晩、ひそかに小屋を抜け出して帰り道の清水の湧く池へ身を投げて死んでしまいました。以後、この池を『牛むぐりの池』というようになりました。(現在、印旛中学校の裏にあります)

 

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また、乳母の杉自も「私ももう寄る年波、身体が弱って都まで帰れそうにありません。この村の人になりたいと思います」ということで村に残ることになりました。

 

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姫は都に帰りました。ご両親陛下を始め一同の喜びは例えようもありません。

 

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せっかく治った病気でしたが、姫は短命で若くして世を去りました。姫の遺言『私が死んだら火葬にして骨の半分を下総の国のあの薬師堂の裏に葬ってほしい』との言葉が守られ、お骨は使者に抱かれて再び下総に下り薬師堂の裏へ葬られました。

 

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朝廷の命により、出戸の地は萩原村から分けて松虫村とし薬師堂と姫の墓を守るために寺を建てました。これが松虫寺です。

 

 

 

乳母の杉自の墓は、寺の北五百メートルほどの所に『姥塚』として残っています。

 

松虫寺の『七仏薬師像』は文部省(現.文部科学省)から重要文化財の指定を受け、いまは薬師堂脇の鉄筋コンクリート造りの収蔵庫に保管されています。

 

また、境内には姫がついてきた杖が根付いたという『お杖銀杏』の古木なども残っています。